LOGIN雨が上がった翌日の午後は、空気が澄んで、木材の乾燥には最良の日和だった。
お龍は工房の縁側に座り、さまざまな種類の木材を広げていた。
檜(ひのき)、朴(ほお)、椿(つばき)、そして南洋から渡ってきたという黒檀(こくたん)。
それぞれの木には個性がある。檜は香りが高く、殺菌作用があるため、清浄な用途に向いている。朴は柔らかく加工しやすいが、耐久性に欠ける。黒檀は石のように硬く、冷たい。
「お龍さん、いるかい?」
路地の方から、鈴を転がすような高い声がした。
吉原の遊女、夕霧(ゆうぎり)である。
彼女は今日、非番の日を利用して、「あわい屋」を訪ねてきたのだ。派手な打掛ではなく、地味な町娘のような着物を着ているが、その歩き方ひとつに染み付いた色気は隠しようがない。
「あら、夕霧。珍しいじゃない」
「ちょっと近くまで来たからさ。……嘘よ、あんたに会いたくて足が勝手に向いちゃった」
夕霧は悪戯っぽく舌を出して、慣れた様子でお龍の隣に腰掛けた。
彼女からは、高級な白粉(おしろい)と、微かな伽羅(きゃら)の香りがした。それは遊郭という閉ざされた世界の匂いだ。
「精が出るねえ。また新しい注文かい?」
夕霧は広げられた木材の一本を手に取った。真っ白な木肌の檜だ。
「ええ。神田の商家の旦那さんからよ。奥方が不感症で悩んでいるらしくて、少し刺激の強いものを、とね」
「男ってのは勝手だねえ。自分の腕が悪いのは棚に上げて、道具に頼ろうってんだから」
ケラケラと笑う夕霧の横顔を、お龍は眩しそうに見つめた。
夕霧は美しい。透けるような白い肌、切れ長の目、そして何より、生命力に溢れている。彼女の体は、お龍の病んだ肉体とは正反対の、瑞々しい果実のようだ。
「ねえ、お龍さん」
夕霧がふと真顔になり、お龍の手を取った。
「あんたの手、随分と荒れてるよ。……また、無理してるんじゃないのかい?」
夕霧の指が、お龍の指のささくれを優しく撫でる。その指先は温かく、柔らかかった。
「職人の手だからね。仕方ないわ」
「嘘だ。あんたの手は、冷たすぎる」
夕霧は、お龍の手を自分の着物の懐――帯の間へと引き入れた。そこは温かかった。乳房の膨らみと、心臓の鼓動が直接伝わってくる。
「……夕霧……」
「あたしが温めてあげる」
真昼の縁側である。人通りは少ないとはいえ、誰に見られるかも分からない。だが、お龍も夕霧も、そんなことは意に介さなかった。
江戸の性愛は、現代よりもずっと大らかで、そして曖昧(あわい)の中にあった。
夕霧はお龍の方へ体を寄せ、そのまま唇を重ねてきた。
甘い味がした。口紅の味と、唾液の味。
お龍の脳内で、パチパチと火花が散る。熱が高まる。
彼女たちはそのまま、奥の六畳間へと転がり込んだ。
夕霧の肌は吸い付くようだった。
着物が乱れ、露わになった夕霧の太腿は、白磁のように滑らかだ。お龍はその曲線を指先でなぞりながら、無意識のうちに「構造」を分析していた。
(大腿骨の角度、骨盤の広がり、筋肉のつき方……この柔らかさを木で表現するには、どうすればいい?)
愛撫の最中でさえ、お龍の職人としての眼(まなこ)は閉じることがない。それは呪いのようなものだった。
「……んっ、お龍さん、もっと……」
夕霧が背中を反らす。
お龍は、自分が以前に夕霧のために作った張形――桜の木を削り出し、何度も漆を塗り重ねて仕上げた逸品――を取り出した。
その張形は、夕霧の体内の形状に合わせてカスタムメイドされたものだ。
ゆっくりと、それを挿入する。
夕霧の呼吸が変わる。ただの異物ではない。自分の快楽のためだけに計算され尽くした形状が、彼女の最も敏感な部分を的確に捉える。
「あ、ぁ……っ! それ、すごい……お龍さんが、中にいるみたい……」
夕霧の言葉に、お龍の胸が締め付けられる。
私が中にいるみたい。
それは、お龍が最も聞きたかった言葉であり、同時に最も残酷な言葉でもあった。
私の本体はここ(肉体)にあるのに、彼女が感じている「私」は、私が削り出した木片の方なのだ。
本物の指よりも、偽物の木の方が、彼女を深く愛せている。
この逆説。
お龍は涙ぐみながら、夕霧を抱きしめた。自分の骨ばった体が、夕霧の豊満な肉体に食い込む。
「夕霧、好きよ」
「あたしもだよ、お龍さん。あんたがいなきゃ、吉原なんて地獄で生きていけない」
情事が終わった後、二人は乱れた着物のまま、畳の上で横たわっていた。
夕霧は満足げな寝息を立てている。
承知いたしました。
第二章の該当シーンの直後に、お龍と夕霧の深く、そして熱に浮かされたような二度目の情事を追加執筆いたします。 「職人の手」と「遊女の肌」、そして「あわい(間)」を繋ぐ道具を用いた、官能的かつ耽美な描写を行います。情事が終わった後、二人は乱れた着物のまま、畳の上で横たわっていた。
夕霧は満足げな寝息を立てている。
だが、お龍は眠ってはいなかった。
病が生む微熱が、彼女の脳髄を覚醒させ続けていた。気だるい疲労感はあるものの、神経は研ぎ澄まされ、視界の彩度はむしろ高まっている。お龍は肘をつき、隣で眠る夕霧の顔を覗き込んだ。
午後の日差しが障子紙を通して柔らかく拡散し、夕霧の白い裸身に真珠のような光沢を与えている。 乱れた襟元から覗く鎖骨のくぼみ。豊満な乳房の、重力に逆らわず流れる柔らかな曲線。そして、帯が解けて露わになった腰の、なだらかな起伏。(美しい素材だ……)
職人としての眼差しが、愛人の肌を愛でる。
しかし、その視線はすぐに熱を帯びた、渇望の色へと変わっていった。 一度の交わりでは足りない。死の影が濃くなればなるほど、生の証である「性」への飢えは増すばかりだった。お龍は音もなく立ち上がり、部屋の隅にある桐箪笥の引き出しを引いた。
そこから、真新しい白木の箱を取り出す。 蓋を開けると、真紅の布の上に、一本の奇妙な形状をした張形が鎮座していた。それは、「相互張形(そうごはりがた)」――俗にいう双頭の張形であった。
素材は、お龍が秘蔵していた樹齢百年の紅木(こうき)。緻密な木目を持ち、磨けば磨くほど深みのある赤褐色に輝く銘木だ。 中央のくびれから左右対称に、二つの男根が伸びている。それぞれの亀頭は、夕霧の膣内の形状と、お龍自身のそれを完璧に計算して彫り出されていた。表面には、数ヶ月かけて塗り重ねた拭き漆(うるし)が施され、濡れたような艶を放っている。「……夕霧」
お龍は箱を枕元に置き、夕霧の耳元に唇を寄せた。
まだ夢の中にいる遊女の、あどけない寝顔。お龍はその薄い唇を、自分の唇で優しく啄(つい)ばんだ。「ん……ぅ……」
夕霧が微かに身じろぎする。
お龍はさらに深く、舌先を割り込ませた。夕霧の口内に残る、先程の情事の甘い余韻と、彼女自身の唾液の味を味わうように、執拗に舌を絡ませる。「……んんっ、ぷはっ」
夕霧が息苦しさに目を開けた。
とろんとした瞳が、目前にあるお龍の顔を捉え、焦点を結ぶ。「お龍さん……? まだ、やるのかい……?」
掠れた声には、拒絶ではなく、甘えたような響きがあった。
お龍は微笑み、熱い指先で夕霧の頬を撫でた。「ごめんよ。あんたの寝顔を見ていたら、身体の芯が疼いてしまってね。……私の熱が、冷めないんだ」
お龍は夕霧の手を取り、自分の股間へと導いた。
薄い襦袢越しでも、そこが再び濡れそぼり、熱を発しているのが分かったはずだ。「呆れた人だねえ……。労咳の気があるってのに、こんなに元気だなんて」
夕霧はくすりと笑い、自ら着物の裾を割り広げた。
先程の愛液で太腿の内側が光っている。その淫らな景色が、お龍の職人魂と性欲の両方に火をつけた。「今日は、これを使いたいんだ」
お龍は相互張形を提示した。
夕霧の目が丸くなる。「まあ……。なんて立派な木だろう。それに、両方が頭になってる」
「あんたと私、二人で同時に繋がるための道具さ。……試させてくれるかい?」
夕霧は妖艶な笑みを浮かべ、両腕をお龍の首に回した。
「あんたの作ったものなら、毒でも飲むわよ。……さあ、あたいをどうする気だい?」
お龍は夕霧の上に覆いかぶさるのではなく、身体を反転させ、向かい合うようにして横たわった。
いわゆる「合わせ」の体勢だ。まずは、指での愛撫からだった。
お龍の指先は、長年の鑿(のみ)仕事で硬くなり、指紋がすり減っている。そのザラついた指の腹が、夕霧の敏感な乳首を擦り上げた。「あぁっ……!」
夕霧が背中を反らす。
絹のような柔肌と、荒れた職人の指。その摩擦係数の違いが、強烈な快感となって夕霧を襲う。 お龍はもう一方の手で、夕霧のなだらかな腹部から、秘所へと指を這わせた。秘貝は、熟した無花果(いちじく)のように赤く充血し、蜜を滴らせている。
お龍はそこを指で割り開き、クリトリスを執拗に弾き、窄まりの周囲を円を描くように愛撫した。「ひぁ、あっ、そこ……お龍さん、指、うまい……っ」
吉原で数多の男を知る夕霧だが、お龍の指使いには敵わない。お龍は「構造」を知っているからだ。どこに神経が集中し、どの角度で押せば筋肉がどう収縮するかを、解剖学的な直感で理解している。
十分に濡れたことを確認すると、お龍は相互張形を手に取った。
椿油をたっぷりと塗り込み、その表面をさらに滑らかにする。「入れるよ」
お龍は、片方の先端を、夕霧の蜜壺にあてがった。
ゆっくりと、焦らすように押し込んでいく。 紅木の硬さと、人肌の温度まで温まった漆の感触が、夕霧の膣壁を押し広げる。「ふ、うぅ……っ。大きい……でも、すごく、滑らか……」
半分ほど飲み込ませたところで、お龍は自らの着物を捲り上げ、片膝を立てた。
そして、張形のもう一方の先端を、自身の秘所に導いた。ぬぷり。
水音と共に、お龍の身体が異物を迎え入れる。これで、二人は一本の木を通じて繋がった。
清次も、客も、誰も入り込めない、女二人だけの聖域。「動くよ……」
お龍が腰を揺らした。
彼女が腰を引けば、張形はお龍の奥深くまで入り込み、同時に夕霧からは抜けそうになる。 逆にお龍が押し込めば、夕霧の奥底を突くことになる。ごり、ごり、ごり。
互いの恥骨と恥骨がぶつかり合う音と、木が肉を擦る音が混ざり合う。「あ、ああっ! これ、すごい……! お龍さんの動きが、そのまま、あたいの中に……っ!」
夕霧が乱れ髪を振り乱して喘ぐ。
直接的なピストン運動ではない。互いの腰のねじり、臀部の収縮、そのすべてが直接相手の内壁に伝達される。 まるで、内臓同士が会話をしているような感覚。お龍の視界が、熱と快楽で揺らいだ。
目の前には夕霧の顔がある。汗に濡れた額、半開きの口、潤んだ瞳。 その表情のすべてが、自分が与えている快楽の鏡像なのだ。「夕霧、いい顔だ……」
お龍は夕霧の唇を奪いながら、腰の動きを激しくした。
相互張形が、二人の蜜でぐしょぐしょに濡れ、滑りを良くしていく。 漆塗りの硬質な表面が、膣内のヒダの一つ一つを克明に捉え、抉るように刺激する。お龍の肺が、ヒューヒューと音を立てる。
酸素が足りない。苦しい。 だが、その窒息感が、快楽を加速させる。死に近づく瞬間の浮遊感と、絶頂に向かう高揚感が、脳内で混然一体となる。「もっと……もっと深く……! 骨まで届くくらいに……!」
お龍は譫言(うわごと)のように呟き、夕霧の腰を両手で強く掴んだ。
自分の骨盤を夕霧のそれに押し付け、グリグリと回すように擦り合わせる。 張形の結節点が、二人のクリトリスを同時に押し潰し、刺激する。「ひぃぃっ! だめ、お龍さん、それ、壊れちゃう……っ! あたい、壊れちゃうよぉ!」
夕霧の声が裏返る。
遊女としての「演技」など欠片もない。ただの雌としての悲鳴だ。 お龍はその声を聞くたびに、ゾクゾクとした震えが背筋を駆け上がるのを感じた。私の作った道具が、彼女をここまで狂わせている。
私の分身が、彼女の中を侵食している。「壊れていい……。一緒に、溶けてしまおう……」
お龍は最後の力を振り絞った。
病み衰えた筋肉のどこにそんな力が残っていたのか。彼女は獣のように腰を振った。ズッ、ズッ、ズプッ、ズプッ。
湿った音が、六畳間に響き渡る。
漆の匂いと、雌の匂いが充満し、空気そのものが粘り気を帯びているようだ。「いく、いくよ……っ! お龍さん、一緒に……っ!」
夕霧が弓なりに反り返る。
膣壁が激しく痙攣し、張形を締め上げる。その収縮が、木を通じてお龍の膣内にも伝わる。 相手の絶頂が、物理的な振動として自分の内側を叩くのだ。「あ、あっ、あぁぁぁぁ――――っ!」
お龍もまた、限界を迎えた。
脳髄が白く弾ける。 視界が真っ白になり、全身の血液が股間の一点に集中し、そして爆発的に解放される。激しい咳と共に、お龍は絶頂に達した。
喉から血の味がしたが、それさえも甘美だった。二人の身体が、一本の木を介して、激しく波打つ。
痙攣は長く続いた。 魂が肉体から遊離し、混ざり合い、またそれぞれの器に戻っていくまでの、長い長い空白の時間。やがて、波が引き、静寂が戻ってきた。
聞こえるのは、二人の荒い呼吸音と、鼓動の音だけ。お龍は、汗だくのまま夕霧の上に重なるようにして脱力した。
相互張形はまだ、二人を繋いだままだ。「……はぁ、はぁ……。すごかったね、今の……」
夕霧が、放心したような声で呟いた。
彼女の全身は桜色に染まり、汗が光っている。「ああ……。最高だった」
お龍は夕霧の首筋に顔を埋め、その脈動を感じた。
ドクン、ドクン、という命の音。「ねえ、お龍さん。……これ、抜かないで」
夕霧が、お龍の背中に腕を回し、しがみつくように言った。
「しばらく、このままで……。あんたと繋がったままでいたい」
「……分かった」
お龍は微笑み、夕霧の汗ばんだ髪を撫でた。
繋がっている。
物理的にも、精神的にも。 この紅木の道具は、単なる快楽の玩具ではない。二つの孤独な魂を接続する、架け橋なのだ。お龍は、まだ体内に残る張形の異物感を、愛おしく感じた。
それは、死が二人を分かつその瞬間まで、決して消えることのない「縁(えにし)」の重さそのものだった。午後の日差しが傾き、部屋に長い影を落とし始めても、二人は一本の木を介して抱き合ったまま、微睡(まどろ)みの中に漂い続けていた。
◆
やがてお龍は起き上がり、散らばった道具を片付け始めた。
その時、ふと床に落ちていた木片が目に入った。
それは、先ほどまで削っていた柘植の端材だ。
お龍はそれを拾い上げ、光にかざした。
複雑に入り組んだ木目。年輪の層。
木は、その一生の歴史を年輪として体に刻む。干ばつの年は幅が狭く、豊作の年は広い。傷がつけば、その部分の細胞は変質し、硬い節(ふし)となる。
人間も同じだ、とお龍は思った。
苦しみも喜びも、すべて身体のどこかに記憶されている。
清次の不能も、夕霧の遊郭での苦界も、そして私自身の病も。
(私の肺には、どんな年輪が刻まれているのだろう)
きっと、黒く腐った空洞が広がっているに違いない。
お龍は、その空洞を埋めるように、ひたすら木を削るのだ。
その夜、清次が再びやってきた。
彼は少し酔っていた。珍しいことだ。
「……飲みすぎたのか?」
お龍が白湯(さゆ)を差し出すと、清次はそれを一気に飲み干し、苦笑した。
「ああ。昔の仲間に会ってな。出世自慢を聞かされてきた」
清次の同期の侍たちは、今や幕府の要職に就いたり、大きな藩の家老になったりしている。一方、清次は浪人のままだ。
「情けない話だ。俺には守るべき主君も、家庭もない」
「ここがあるじゃないか」
お龍は静かに言った。
「あわい屋は、あんたの居場所じゃないのかい?」
清次は顔を上げ、お龍を見た。その瞳には、深い悲哀と、どうしようもない愛着が宿っていた。
「……そうだな。ここだけが、俺が息をできる場所だ」
彼は手を伸ばし、お龍の頬に触れた。
「だが、ここも長くはないかもしれないぞ」
「どういうこと?」
「風聞だ。……老中が代わるらしい。水野忠邦様だ」
お龍は眉をひそめた。政治には疎いが、その名前は聞いたことがある。厳格な改革論者だ。
「風紀の引き締めが始まる。贅沢品の禁止、出版統制……そして、お前のような商売も、目の敵にされるだろう」
張形作りは、公には認められていない裏の商売だ。これまではお目こぼしされてきたが、本格的な取り締まりが始まれば、ただでは済まない。
「捕まれば、江戸払いか、あるいは……」
清次は言葉を濁した。
お龍は、自分の作った張形たちが役人に没収され、燃やされる光景を想像した。
自分の魂の分身たちが、灰になる。
「……隠れればいいさ」
お龍は強がって言った。
「どこへ? お前の体で、逃避行など無理だ」
清次の指摘は正鵠(せいこく)を射ていた。お龍の病状は、旅に耐えられるものではない。
「それに、俺は……」
清次は何かを言いかけて、やめた。
彼は懐から、一枚の紙を取り出した。
「これを」
それは、版画のようなものだった。しかし、絵ではない。人体解剖図――『解体新書』の写しの一部だった。
「蘭学医の知り合いに頼んで、写させてもらった」
そこには、人間の骨格と内臓が、精緻な線で描かれていた。
「お前、こういうのが好きだろう」
お龍は息を呑んだ。
美しい。
皮を剥がれた人間の、真実の姿。肋骨のアーチ、骨盤の空洞、背骨の連結。
それは、彼女が追い求めてきた「形の究極」だった。
「ありがとう、清次さん……! これ、すごく役に立つわ」
お龍が目を輝かせると、清次は安堵したように微笑んだ。彼は、性的な満足をお龍に与えられない代わりに、知的な刺激という「種」を彼女の中に注ぎ込んでいるのだ。
「骨か……」
お龍は図面を見つめながら呟いた。
「骨だけになれば、男も女も関係ないね」
「そうかもしれないな」
二人の間に、奇妙な連帯感が生まれた。それは性愛を超えた、同志のような絆だった。
しかし、この平穏な時間が、嵐の前の静けさであることを、二人はまだ知らなかった。
時代の歯車は、残酷な音を立てて回り始めていた。
そしてお龍の肺の中でも、病魔という別の歯車が、死へのカウントダウンを加速させていた。
工房の隅で、盲目の猫・文が、何もない空間に向かって短く鳴いた。
まるで、そこに立つ死神に挨拶をするかのように。
西暦二〇二五年、東京。 初夏の日差しが、文京区根津の路地に降り注いでいた。 古い木造家屋と、近代的なマンションが混在するこの地域で、大規模な再開発工事が行われていた。 かつて稲荷神社があった場所も、新しい道路を通すために掘り返されていた。「おい、何か出たぞ!」 重機を操作していた作業員が叫んだ。 地中深くから、巨大な陶器の壺のようなものが現れたのだ。 現場監督が駆け寄る。 壺は重機の爪でひび割れていたが、中身は無事のようだった。「なんだこれ……? 骨か?」 壺の中には、黒く変色した奇妙な塊と、二本の木製品が入っていた。 数日後。 東京大学医学部、法医学教室。 無機質な解剖台の上に、その「塊」は置かれていた。 部屋の空気は冷たく、空調の音だけが響いている。 准教授の雨宮(あめみや)は、CTスキャンのモニターを食い入るように見つめていた。 彼女は遺物の分析、特に歴史的な出土品の人類学的解析を専門としていた。「先生、これ……すごいです」 助手の学生が、震える声で言った。 モニターには、黒い塊の内部構造が、輪切りの断層画像として映し出されていた。「これ、人間ですよね?」「ええ。成人女性。骨盤の形状からして、出産経験はない。年齢は二十代後半から三十代前半」 雨宮は画像を操作し、3Dモデルを構築していく。 肋骨、脊椎、頭蓋骨。 その骨格は、非常に華奢で、美しいバランスをしていた。「でも、見て。ここの部分」 雨宮が指差したのは、胸部のあたりだ。 そこには、人間の骨とは違う、小さな骨格が融合していた。「猫……ですか?」「そう。猫を抱いている。……それだけじゃないわ」 雨宮はさらに解像度を上げた。 炭化した皮膚の表面、そして骨の周
時は流れ、明治の世が近づいていた。 ちょんまげを落とす者が増え、町にはガス灯が灯り始めていた。 文明開化の足音が聞こえる中、古道具屋「清」の灯りは消えようとしていた。 夕霧が死んだ。 流行り病だった。あっけない最期だった。 彼女は死ぬ間際まで、あの黒柿の張形を握りしめていた。 皺だらけになった手で、それを頬に寄せ、「ああ、お龍さんが迎えに来たよ」と微笑んで息を引き取った。 彼女の顔は、苦界に生きた遊女のものとは思えないほど、少女のように安らかだった。 残されたのは、清次ひとり。 彼ももう七十を超え、足腰は弱り、目も霞んでいた。 広い土蔵に、ひとりぼっち。 そこには、三つの「遺骨」がある。 炭化したお龍の像。 夕霧が遺した張形。 そして、清次自身の腰にある張形。 三つが揃った。「……そろそろ、しまい時だな」 清次は誰に言うでもなく呟いた。 このまま自分が死ねば、これらの品は散逸するだろう。 博物館に飾られるか、好事家のコレクションになるか。 だが、それはお龍の本意ではない。 これらは「見る」ものではなく、「使う」もの、あるいは「想う」ものだ。見世物にされることは、魂の陵辱に等しい。 清次は、最後の仕事に取り掛かった。 彼は、かつて「あわい屋」があった根津の跡地へ向かった。 そこは今、小さな稲荷神社になっていた。火事の犠牲者を弔うために建てられたものだ。 夜陰に乗じて、清次は社の床下に入り込んだ。 かつて、夕霧がお龍を隠そうとしたように。 彼は土を掘った。 深く、深く。 そこは粘土質の層で、湿気を帯びていた。 この湿気が、漆を守る。 清次は、特注の陶器の甕(かめ)を用意していた。 その中に、炭化したお龍の像を安置する。 そして、その左右に、夕霧の張形と、自分の張形を添えた。
季節は巡り、また冬が来た。 清次の古道具屋「清(せい)」は、深川の路地裏でひっそりと、しかし確固たる地位を築いていた。看板もない店だが、目利きの客だけが訪れる。彼らは知っていた。この店の主が、伝説の職人「あわい屋お龍」の作品を鑑定できる唯一の人物であることを。 ある雪の降る夕暮れ、一人の男が店を訪れた。 まだ二十代半ばだろうか。痩身で、神経質そうな指をしている。目は爬虫類のように冷たく、まばたきが少ない。名は勇(いさみ)と名乗った。「清次殿とお見受けする」 勇の声には、若者特有の傲慢さと、それを隠そうとする礼儀正しさが同居していた。「あわい屋お龍の『真作』を作ったので、見ていただきたい」 清次は火鉢に手をかざしたまま、顔を上げた。「……言葉が矛盾しているな。『作った』のなら、それはお龍の作ではない。お前の作だ」「いいえ。私は彼女の技法を完全に再現しました。素材、手順、そして『魂の封入』に至るまで。物理的に同一であれば、それは真作と呼べるはずです」 勇は、桐の箱を差し出した。 箱が開かれると、そこには異様な気配を放つ張形が鎮座していた。 素材は黒檀。漆黒の肌に、血管のような赤い筋が走っている。その艶めかしさは、見る者の股間を直撃するほどの妖力を持っていた。 清次は眉をひそめた。 匂いがする。 お龍の作品から漂う、あの甘美な腐敗臭とは違う。もっと生臭く、暴力的な匂いだ。「……素材は何だ」 清次が問うと、勇は薄い唇を歪めて笑った。「気づかれましたか。……若い女の、大腿骨の粉末を混ぜています」 清次の背筋に氷柱(つらら)が走った。「どこで手に入れた」「吉原の投げ込み寺ですよ。身寄りのない遊女の骨など、金さえ積めばいくらでも手に入る」 勇は悪びれる様子もなく続けた。「お龍は自分の骨を使ったという伝説がある。ならば、他人の骨でも理
それから三年が過ぎた。 江戸の町は見事に復興を遂げていた。 新しい家々が立ち並び、日本橋の往来は以前にも増して活気に溢れている。火事の記憶は薄れ、人々は再び享楽と消費の日々に没頭し始めていた。 その復興の影で、奇妙なブームが起きていた。 「あわい屋お龍」の贋作(がんさく)騒動である。 裏の骨董市場や、好色家たちのサロンでは、お龍の張形が高値で取引されていた。しかし、その九割九分は偽物だった。 どこかの職人が真似て作った粗悪品に、「お龍作」の焼印を押して売りさばいているのだ。 深川の路地裏に、「清(せい)」という名の小さな古道具屋があった。 主人は無口な男で、いつも右足を少し引きずって歩く。そして奥には、決して客前に顔を出さない美しい女房がいるという。 清次と夕霧の、今の姿である。 ある日、一人の若侍が店を訪れた。 身なりは良いが、眼光が鋭く、ただの客ではない雰囲気を纏っている。「主(あるじ)はいるか」 帳場に座っていた清次は、顔を上げずに答えた。「私ですが」「……これを見てほしい」 若侍は、風呂敷包みを解いた。 中から出てきたのは、一本の張形だった。 素材は檜。丁寧な彫りが施され、朱色の漆が塗られている。一見すると見事な出来栄えだ。「ある商人から、『あわい屋お龍』の真作だと言われて三十両で買った。だが……どうも腑に落ちない。貴殿は、お龍の作風に詳しいと聞いた」 清次は、その張形を手に取ることはしなかった。 一瞥しただけだ。「偽物です」 即答だった。 若侍の眉がピクリと動いた。「なぜ手に取って見ない? 触りもせずに分かるのか」「匂いが違います」 清次は静かに言った。「お龍の作品には、匂いがある。漆の匂いだけではない。……血の匂いと、渇望の匂いがするんです」
江戸の復興は、破壊と同じくらい暴力的なエネルギーで始まった。 火が消えるや否や、焼け出された人々は灰をかき出し、焼け残った木材を拾い集め、バラック小屋を建て始めた。あちこちで金槌(かなづち)の音が響き、材木を挽く鋸(のこぎり)の音が絶え間なく聞こえる。それはまるで、巨大な蟻塚が再生していくような、生々しい生命力の合唱だった。 清次と夕霧は、隅田川の東、深川の外れにある廃寺の軒下を仮の住処(すみか)としていた。 奇妙な同居生活だった。 元武士の浪人と、元吉原の高級遊女。そして、その中心には、桐の箱と、布に包まれた「黒い塊」が鎮座している。「……寒いね」 夕霧が薄い煎餅布団をかぶりながら呟いた。 冬の風が、板壁の隙間から容赦なく吹き込んでくる。「ああ。だが、火事の熱よりはマシだ」 清次は焚き火に枯れ枝をくべながら答えた。 彼の手は荒れ放題だった。この一ヶ月、彼は日雇いの人足として働き、瓦礫の撤去や運搬で銭を稼いでいた。武士の誇りなど、とうに捨てた。今あるのは、夕霧とお龍の遺骨を守らねばならないという使命感だけだった。 夕霧もまた、遊女としての華やかさを失っていた。 化粧道具も着物もすべて焼けた。今は清次が拾ってきた男物の古着をまとい、髪を無造作に束ねている。それでも、彼女の肌の白さと、ふとした仕草に宿る色気は消えていなかった。「ねえ、清次さん」 夕霧が焚き火の明かりの中で言った。「あたしたち、これからどうなるんだろうね」「どうもならんさ。ただ生きるだけだ」「……吉原には、戻らないよ」 彼女は膝を抱えた。 吉原もまた大半が焼失したが、仮設の小屋ですぐに営業を再開しているという噂だった。借金証文が焼けていようがいまいが、楼主たちは遊女を逃がしはしない。「戻らなくていい。お前はもう自由だ」「自由って、飢え死にする自由かい?」 夕霧は自嘲気味に笑ったが、その目は真剣だった。
火事が鎮火したのは、三日後のことだった。 江戸の町の三割が焼失したと言われる大火だった。 見渡す限りの焼け野原。黒く焦げた柱が墓標のように立ち並び、まだあちこちから白い煙が上がっている。 清次は一人、根津の跡地を歩いていた。 足元には、瓦礫と灰。 熱気はまだ残っており、草鞋の底を通して伝わってくる。「……あわい屋は、この辺りか」 目印など何もない。だが、清次の足は正確にその場所を覚えていた。何度も通った道だ。匂いの記憶が、彼を導く。 やがて、彼はある一点で足を止めた。 そこは、周囲よりも激しく燃えた形跡があった。漆や油を大量に保管していたからだろう。地面の土までが変色し、ガラス質に固まっている。 清次は膝をつき、灰を掘り返し始めた。 手で。爪が割れ、指先が血に滲むのも構わずに。 何を探しているのか、自分でも分からなかった。骨か? 道具か? ザリッ。 指先に、硬いものが触れた。 石ではない。もっと有機的な感触。 清次は慎重に周囲の灰を取り除いた。 そこに現れたのは、奇妙な塊だった。 黒く炭化した何かが、折り重なっている。 よく見ると、それは人が座禅を組んでいるような形をしていた。そしてその胸元には、小さな獣の形が融合している。 お龍と、文だ。 完全に炭化している。触れれば崩れてしまいそうなほど脆(もろ)い。 だが、その形は崩れていなかった。 そして、その「炭化像」の中心、お龍が抱きしめていたあたりに、異様に光るものがあった。 清次は息を呑んだ。 それは、焼け残った張形……ではなかった。 高熱で溶けた南蛮鏡のガラスと、お龍が体に塗りたくった漆、そして彼女自身の骨の成分……カルシウム……が化学反応を起こし、一種の「釉薬(ゆうやく)」となって、炭化した体の表面をコーテ