LOGIN雨が上がった翌日の午後は、空気が澄んで、木材の乾燥には最良の日和だった。
お龍は工房の縁側に座り、さまざまな種類の木材を広げていた。
檜(ひのき)、朴(ほお)、椿(つばき)、そして南洋から渡ってきたという黒檀(こくたん)。
それぞれの木には個性がある。檜は香りが高く、殺菌作用があるため、清浄な用途に向いている。朴は柔らかく加工しやすいが、耐久性に欠ける。黒檀は石のように硬く、冷たい。
「お龍さん、いるかい?」
路地の方から、鈴を転がすような高い声がした。
吉原の遊女、夕霧(ゆうぎり)である。
彼女は今日、非番の日を利用して、「あわい屋」を訪ねてきたのだ。派手な打掛ではなく、地味な町娘のような着物を着ているが、その歩き方ひとつに染み付いた色気は隠しようがない。
「あら、夕霧。珍しいじゃない」
「ちょっと近くまで来たからさ。……嘘よ、あんたに会いたくて足が勝手に向いちゃった」
夕霧は悪戯っぽく舌を出して、慣れた様子でお龍の隣に腰掛けた。
彼女からは、高級な白粉(おしろい)と、微かな伽羅(きゃら)の香りがした。それは遊郭という閉ざされた世界の匂いだ。
「精が出るねえ。また新しい注文かい?」
夕霧は広げられた木材の一本を手に取った。真っ白な木肌の檜だ。
「ええ。神田の商家の旦那さんからよ。奥方が不感症で悩んでいるらしくて、少し刺激の強いものを、とね」
「男ってのは勝手だねえ。自分の腕が悪いのは棚に上げて、道具に頼ろうってんだから」
ケラケラと笑う夕霧の横顔を、お龍は眩しそうに見つめた。
夕霧は美しい。透けるような白い肌、切れ長の目、そして何より、生命力に溢れている。彼女の体は、お龍の病んだ肉体とは正反対の、瑞々しい果実のようだ。
「ねえ、お龍さん」
夕霧がふと真顔になり、お龍の手を取った。
「あんたの手、随分と荒れてるよ。……また、無理してるんじゃないのかい?」
夕霧の指が、お龍の指のささくれを優しく撫でる。その指先は温かく、柔らかかった。
「職人の手だからね。仕方ないわ」
「嘘だ。あんたの手は、冷たすぎる」
夕霧は、お龍の手を自分の着物の懐――帯の間へと引き入れた。そこは温かかった。乳房の膨らみと、心臓の鼓動が直接伝わってくる。
「……夕霧……」
「あたしが温めてあげる」
真昼の縁側である。人通りは少ないとはいえ、誰に見られるかも分からない。だが、お龍も夕霧も、そんなことは意に介さなかった。
江戸の性愛は、現代よりもずっと大らかで、そして曖昧(あわい)の中にあった。
夕霧はお龍の方へ体を寄せ、そのまま唇を重ねてきた。
甘い味がした。口紅の味と、唾液の味。
お龍の脳内で、パチパチと火花が散る。熱が高まる。
彼女たちはそのまま、奥の六畳間へと転がり込んだ。
夕霧の肌は吸い付くようだった。
着物が乱れ、露わになった夕霧の太腿は、白磁のように滑らかだ。お龍はその曲線を指先でなぞりながら、無意識のうちに「構造」を分析していた。
(大腿骨の角度、骨盤の広がり、筋肉のつき方……この柔らかさを木で表現するには、どうすればいい?)
愛撫の最中でさえ、お龍の職人としての眼(まなこ)は閉じることがない。それは呪いのようなものだった。
「……んっ、お龍さん、もっと……」
夕霧が背中を反らす。
お龍は、自分が以前に夕霧のために作った張形――桜の木を削り出し、何度も漆を塗り重ねて仕上げた逸品――を取り出した。
その張形は、夕霧の体内の形状に合わせてカスタムメイドされたものだ。
ゆっくりと、それを挿入する。
夕霧の呼吸が変わる。ただの異物ではない。自分の快楽のためだけに計算され尽くした形状が、彼女の最も敏感な部分を的確に捉える。
「あ、ぁ……っ! それ、すごい……お龍さんが、中にいるみたい……」
夕霧の言葉に、お龍の胸が締め付けられる。
私が中にいるみたい。
それは、お龍が最も聞きたかった言葉であり、同時に最も残酷な言葉でもあった。
私の本体はここ(肉体)にあるのに、彼女が感じている「私」は、私が削り出した木片の方なのだ。
本物の指よりも、偽物の木の方が、彼女を深く愛せている。
この逆説。
お龍は涙ぐみながら、夕霧を抱きしめた。自分の骨ばった体が、夕霧の豊満な肉体に食い込む。
「夕霧、好きよ」
「あたしもだよ、お龍さん。あんたがいなきゃ、吉原なんて地獄で生きていけない」
情事が終わった後、二人は乱れた着物のまま、畳の上で横たわっていた。
夕霧は満足げな寝息を立てている。
承知いたしました。
第二章の該当シーンの直後に、お龍と夕霧の深く、そして熱に浮かされたような二度目の情事を追加執筆いたします。 「職人の手」と「遊女の肌」、そして「あわい(間)」を繋ぐ道具を用いた、官能的かつ耽美な描写を行います。情事が終わった後、二人は乱れた着物のまま、畳の上で横たわっていた。
夕霧は満足げな寝息を立てている。
だが、お龍は眠ってはいなかった。
病が生む微熱が、彼女の脳髄を覚醒させ続けていた。気だるい疲労感はあるものの、神経は研ぎ澄まされ、視界の彩度はむしろ高まっている。お龍は肘をつき、隣で眠る夕霧の顔を覗き込んだ。
午後の日差しが障子紙を通して柔らかく拡散し、夕霧の白い裸身に真珠のような光沢を与えている。 乱れた襟元から覗く鎖骨のくぼみ。豊満な乳房の、重力に逆らわず流れる柔らかな曲線。そして、帯が解けて露わになった腰の、なだらかな起伏。(美しい素材だ……)
職人としての眼差しが、愛人の肌を愛でる。
しかし、その視線はすぐに熱を帯びた、渇望の色へと変わっていった。 一度の交わりでは足りない。死の影が濃くなればなるほど、生の証である「性」への飢えは増すばかりだった。お龍は音もなく立ち上がり、部屋の隅にある桐箪笥の引き出しを引いた。
そこから、真新しい白木の箱を取り出す。 蓋を開けると、真紅の布の上に、一本の奇妙な形状をした張形が鎮座していた。それは、「相互張形(そうごはりがた)」――俗にいう双頭の張形であった。
素材は、お龍が秘蔵していた樹齢百年の紅木(こうき)。緻密な木目を持ち、磨けば磨くほど深みのある赤褐色に輝く銘木だ。 中央のくびれから左右対称に、二つの男根が伸びている。それぞれの亀頭は、夕霧の膣内の形状と、お龍自身のそれを完璧に計算して彫り出されていた。表面には、数ヶ月かけて塗り重ねた拭き漆(うるし)が施され、濡れたような艶を放っている。「……夕霧」
お龍は箱を枕元に置き、夕霧の耳元に唇を寄せた。
まだ夢の中にいる遊女の、あどけない寝顔。お龍はその薄い唇を、自分の唇で優しく啄(つい)ばんだ。「ん……ぅ……」
夕霧が微かに身じろぎする。
お龍はさらに深く、舌先を割り込ませた。夕霧の口内に残る、先程の情事の甘い余韻と、彼女自身の唾液の味を味わうように、執拗に舌を絡ませる。「……んんっ、ぷはっ」
夕霧が息苦しさに目を開けた。
とろんとした瞳が、目前にあるお龍の顔を捉え、焦点を結ぶ。「お龍さん……? まだ、やるのかい……?」
掠れた声には、拒絶ではなく、甘えたような響きがあった。
お龍は微笑み、熱い指先で夕霧の頬を撫でた。「ごめんよ。あんたの寝顔を見ていたら、身体の芯が疼いてしまってね。……私の熱が、冷めないんだ」
お龍は夕霧の手を取り、自分の股間へと導いた。
薄い襦袢越しでも、そこが再び濡れそぼり、熱を発しているのが分かったはずだ。「呆れた人だねえ……。労咳の気があるってのに、こんなに元気だなんて」
夕霧はくすりと笑い、自ら着物の裾を割り広げた。
先程の愛液で太腿の内側が光っている。その淫らな景色が、お龍の職人魂と性欲の両方に火をつけた。「今日は、これを使いたいんだ」
お龍は相互張形を提示した。
夕霧の目が丸くなる。「まあ……。なんて立派な木だろう。それに、両方が頭になってる」
「あんたと私、二人で同時に繋がるための道具さ。……試させてくれるかい?」
夕霧は妖艶な笑みを浮かべ、両腕をお龍の首に回した。
「あんたの作ったものなら、毒でも飲むわよ。……さあ、あたいをどうする気だい?」
お龍は夕霧の上に覆いかぶさるのではなく、身体を反転させ、向かい合うようにして横たわった。
いわゆる「合わせ」の体勢だ。まずは、指での愛撫からだった。
お龍の指先は、長年の鑿(のみ)仕事で硬くなり、指紋がすり減っている。そのザラついた指の腹が、夕霧の敏感な乳首を擦り上げた。「あぁっ……!」
夕霧が背中を反らす。
絹のような柔肌と、荒れた職人の指。その摩擦係数の違いが、強烈な快感となって夕霧を襲う。 お龍はもう一方の手で、夕霧のなだらかな腹部から、秘所へと指を這わせた。秘貝は、熟した無花果(いちじく)のように赤く充血し、蜜を滴らせている。
お龍はそこを指で割り開き、クリトリスを執拗に弾き、窄まりの周囲を円を描くように愛撫した。「ひぁ、あっ、そこ……お龍さん、指、うまい……っ」
吉原で数多の男を知る夕霧だが、お龍の指使いには敵わない。お龍は「構造」を知っているからだ。どこに神経が集中し、どの角度で押せば筋肉がどう収縮するかを、解剖学的な直感で理解している。
十分に濡れたことを確認すると、お龍は相互張形を手に取った。
椿油をたっぷりと塗り込み、その表面をさらに滑らかにする。「入れるよ」
お龍は、片方の先端を、夕霧の蜜壺にあてがった。
ゆっくりと、焦らすように押し込んでいく。 紅木の硬さと、人肌の温度まで温まった漆の感触が、夕霧の膣壁を押し広げる。「ふ、うぅ……っ。大きい……でも、すごく、滑らか……」
半分ほど飲み込ませたところで、お龍は自らの着物を捲り上げ、片膝を立てた。
そして、張形のもう一方の先端を、自身の秘所に導いた。ぬぷり。
水音と共に、お龍の身体が異物を迎え入れる。これで、二人は一本の木を通じて繋がった。
清次も、客も、誰も入り込めない、女二人だけの聖域。「動くよ……」
お龍が腰を揺らした。
彼女が腰を引けば、張形はお龍の奥深くまで入り込み、同時に夕霧からは抜けそうになる。 逆にお龍が押し込めば、夕霧の奥底を突くことになる。ごり、ごり、ごり。
互いの恥骨と恥骨がぶつかり合う音と、木が肉を擦る音が混ざり合う。「あ、ああっ! これ、すごい……! お龍さんの動きが、そのまま、あたいの中に……っ!」
夕霧が乱れ髪を振り乱して喘ぐ。
直接的なピストン運動ではない。互いの腰のねじり、臀部の収縮、そのすべてが直接相手の内壁に伝達される。 まるで、内臓同士が会話をしているような感覚。お龍の視界が、熱と快楽で揺らいだ。
目の前には夕霧の顔がある。汗に濡れた額、半開きの口、潤んだ瞳。 その表情のすべてが、自分が与えている快楽の鏡像なのだ。「夕霧、いい顔だ……」
お龍は夕霧の唇を奪いながら、腰の動きを激しくした。
相互張形が、二人の蜜でぐしょぐしょに濡れ、滑りを良くしていく。 漆塗りの硬質な表面が、膣内のヒダの一つ一つを克明に捉え、抉るように刺激する。お龍の肺が、ヒューヒューと音を立てる。
酸素が足りない。苦しい。 だが、その窒息感が、快楽を加速させる。死に近づく瞬間の浮遊感と、絶頂に向かう高揚感が、脳内で混然一体となる。「もっと……もっと深く……! 骨まで届くくらいに……!」
お龍は譫言(うわごと)のように呟き、夕霧の腰を両手で強く掴んだ。
自分の骨盤を夕霧のそれに押し付け、グリグリと回すように擦り合わせる。 張形の結節点が、二人のクリトリスを同時に押し潰し、刺激する。「ひぃぃっ! だめ、お龍さん、それ、壊れちゃう……っ! あたい、壊れちゃうよぉ!」
夕霧の声が裏返る。
遊女としての「演技」など欠片もない。ただの雌としての悲鳴だ。 お龍はその声を聞くたびに、ゾクゾクとした震えが背筋を駆け上がるのを感じた。私の作った道具が、彼女をここまで狂わせている。
私の分身が、彼女の中を侵食している。「壊れていい……。一緒に、溶けてしまおう……」
お龍は最後の力を振り絞った。
病み衰えた筋肉のどこにそんな力が残っていたのか。彼女は獣のように腰を振った。ズッ、ズッ、ズプッ、ズプッ。
湿った音が、六畳間に響き渡る。
漆の匂いと、雌の匂いが充満し、空気そのものが粘り気を帯びているようだ。「いく、いくよ……っ! お龍さん、一緒に……っ!」
夕霧が弓なりに反り返る。
膣壁が激しく痙攣し、張形を締め上げる。その収縮が、木を通じてお龍の膣内にも伝わる。 相手の絶頂が、物理的な振動として自分の内側を叩くのだ。「あ、あっ、あぁぁぁぁ――――っ!」
お龍もまた、限界を迎えた。
脳髄が白く弾ける。 視界が真っ白になり、全身の血液が股間の一点に集中し、そして爆発的に解放される。激しい咳と共に、お龍は絶頂に達した。
喉から血の味がしたが、それさえも甘美だった。二人の身体が、一本の木を介して、激しく波打つ。
痙攣は長く続いた。 魂が肉体から遊離し、混ざり合い、またそれぞれの器に戻っていくまでの、長い長い空白の時間。やがて、波が引き、静寂が戻ってきた。
聞こえるのは、二人の荒い呼吸音と、鼓動の音だけ。お龍は、汗だくのまま夕霧の上に重なるようにして脱力した。
相互張形はまだ、二人を繋いだままだ。「……はぁ、はぁ……。すごかったね、今の……」
夕霧が、放心したような声で呟いた。
彼女の全身は桜色に染まり、汗が光っている。「ああ……。最高だった」
お龍は夕霧の首筋に顔を埋め、その脈動を感じた。
ドクン、ドクン、という命の音。「ねえ、お龍さん。……これ、抜かないで」
夕霧が、お龍の背中に腕を回し、しがみつくように言った。
「しばらく、このままで……。あんたと繋がったままでいたい」
「……分かった」
お龍は微笑み、夕霧の汗ばんだ髪を撫でた。
繋がっている。
物理的にも、精神的にも。 この紅木の道具は、単なる快楽の玩具ではない。二つの孤独な魂を接続する、架け橋なのだ。お龍は、まだ体内に残る張形の異物感を、愛おしく感じた。
それは、死が二人を分かつその瞬間まで、決して消えることのない「縁(えにし)」の重さそのものだった。午後の日差しが傾き、部屋に長い影を落とし始めても、二人は一本の木を介して抱き合ったまま、微睡(まどろ)みの中に漂い続けていた。
◆
やがてお龍は起き上がり、散らばった道具を片付け始めた。
その時、ふと床に落ちていた木片が目に入った。
それは、先ほどまで削っていた柘植の端材だ。
お龍はそれを拾い上げ、光にかざした。
複雑に入り組んだ木目。年輪の層。
木は、その一生の歴史を年輪として体に刻む。干ばつの年は幅が狭く、豊作の年は広い。傷がつけば、その部分の細胞は変質し、硬い節(ふし)となる。
人間も同じだ、とお龍は思った。
苦しみも喜びも、すべて身体のどこかに記憶されている。
清次の不能も、夕霧の遊郭での苦界も、そして私自身の病も。
(私の肺には、どんな年輪が刻まれているのだろう)
きっと、黒く腐った空洞が広がっているに違いない。
お龍は、その空洞を埋めるように、ひたすら木を削るのだ。
その夜、清次が再びやってきた。
彼は少し酔っていた。珍しいことだ。
「……飲みすぎたのか?」
お龍が白湯(さゆ)を差し出すと、清次はそれを一気に飲み干し、苦笑した。
「ああ。昔の仲間に会ってな。出世自慢を聞かされてきた」
清次の同期の侍たちは、今や幕府の要職に就いたり、大きな藩の家老になったりしている。一方、清次は浪人のままだ。
「情けない話だ。俺には守るべき主君も、家庭もない」
「ここがあるじゃないか」
お龍は静かに言った。
「あわい屋は、あんたの居場所じゃないのかい?」
清次は顔を上げ、お龍を見た。その瞳には、深い悲哀と、どうしようもない愛着が宿っていた。
「……そうだな。ここだけが、俺が息をできる場所だ」
彼は手を伸ばし、お龍の頬に触れた。
「だが、ここも長くはないかもしれないぞ」
「どういうこと?」
「風聞だ。……老中が代わるらしい。水野忠邦様だ」
お龍は眉をひそめた。政治には疎いが、その名前は聞いたことがある。厳格な改革論者だ。
「風紀の引き締めが始まる。贅沢品の禁止、出版統制……そして、お前のような商売も、目の敵にされるだろう」
張形作りは、公には認められていない裏の商売だ。これまではお目こぼしされてきたが、本格的な取り締まりが始まれば、ただでは済まない。
「捕まれば、江戸払いか、あるいは……」
清次は言葉を濁した。
お龍は、自分の作った張形たちが役人に没収され、燃やされる光景を想像した。
自分の魂の分身たちが、灰になる。
「……隠れればいいさ」
お龍は強がって言った。
「どこへ? お前の体で、逃避行など無理だ」
清次の指摘は正鵠(せいこく)を射ていた。お龍の病状は、旅に耐えられるものではない。
「それに、俺は……」
清次は何かを言いかけて、やめた。
彼は懐から、一枚の紙を取り出した。
「これを」
それは、版画のようなものだった。しかし、絵ではない。人体解剖図――『解体新書』の写しの一部だった。
「蘭学医の知り合いに頼んで、写させてもらった」
そこには、人間の骨格と内臓が、精緻な線で描かれていた。
「お前、こういうのが好きだろう」
お龍は息を呑んだ。
美しい。
皮を剥がれた人間の、真実の姿。肋骨のアーチ、骨盤の空洞、背骨の連結。
それは、彼女が追い求めてきた「形の究極」だった。
「ありがとう、清次さん……! これ、すごく役に立つわ」
お龍が目を輝かせると、清次は安堵したように微笑んだ。彼は、性的な満足をお龍に与えられない代わりに、知的な刺激という「種」を彼女の中に注ぎ込んでいるのだ。
「骨か……」
お龍は図面を見つめながら呟いた。
「骨だけになれば、男も女も関係ないね」
「そうかもしれないな」
二人の間に、奇妙な連帯感が生まれた。それは性愛を超えた、同志のような絆だった。
しかし、この平穏な時間が、嵐の前の静けさであることを、二人はまだ知らなかった。
時代の歯車は、残酷な音を立てて回り始めていた。
そしてお龍の肺の中でも、病魔という別の歯車が、死へのカウントダウンを加速させていた。
工房の隅で、盲目の猫・文が、何もない空間に向かって短く鳴いた。
まるで、そこに立つ死神に挨拶をするかのように。
清次は走っていた。 心臓が破裂しそうだった。肺が悲鳴を上げている。だが、足は止まらなかった。 彼の胸には、桐の箱が抱かれている。 それは赤ん坊よりも軽く、しかし世界そのもののような重さを持っていた。「どけ! どいてくれ!」 清次は狂乱する群衆をかき分けた。 上野広小路あたりは、地獄の様相を呈していた。大八車(だいはちぐるま)が横転し、家財道具が散乱し、逃げ惑う人々が将棋倒しになっている。 一人の大男が、清次の肩にぶつかってきた。「邪魔だ!」 男は激情に駆られ、清次を突き飛ばそうとした。 清次は転びそうになったが、箱だけは高く掲げて守った。その代わり、腰の大小(刀)が地面に打ち付けられた。 カチャリ、と音がした。「てめぇ、どこ見て歩いてやがる!」 男が逆上して掴みかかってくる。 清次の目が据わった。 彼は刀を抜かなかった。抜く必要がなかった。 彼は箱を左手に抱え直し、右手で刀の鞘(さや)ごとその男のみぞおちを突き上げた。 古流剣術の「鞘当て」。 男は呻き声を上げて崩れ落ちた。 清次は自分でも驚いていた。体が勝手に動いたのだ。 かつて彼を不能にし、剣を捨てさせたトラウマ――「人を傷つけることへの恐怖」が、この瞬間だけは消えていた。 なぜなら、彼には守るべきものがあったからだ。 これは単なる木彫りの道具ではない。お龍の命だ。お龍の骨だ。 彼女が削り、磨き、血を混ぜて塗り上げた、魂の結晶だ。「……俺は、これを届けねばならない」 誰に? 未来に。 お龍という女がいた証を、灰にさせずに残すこと。それが、不能の侍である自分に与えられた、唯一にして最大の使命だった。 隅田川の土手まで出ると、少しだけ熱気が和らいだ。 川面には無数の船が浮かび、対岸へ逃げようとする人々でごった返している。「清次さん!」
江戸が燃えている。 それは比喩ではなく、物理的な事実としての地獄だった。明暦の大火以来と言われる紅蓮(ぐれん)の炎が、乾燥しきった木造家屋を次々と舐め尽くし、夜空を焦がしている。 お龍は、その赤熱する風の中を、一人逆行していた。 人は皆、川へ、広場へと逃げていく。その流れに逆らって歩くことは、川を遡る鮭のように困難であり、そして自滅的だった。 熱い。 皮膚がチリチリと音を立てて乾いていくのが分かる。肺の中に入ってくる空気は、酸素を含まない熱湯のようだ。吸うたびに気管支が焼け爛(ただ)れ、喉の奥から鉄の味が溢れ出す。 しかし、お龍の意識は、かつてないほど澄み渡っていた。 医学的に言えば、極度の低酸素状態と高熱による脳内麻薬の過剰分泌が、彼女を一種のトランス状態に導いていたのだろう。 彼女の目には、燃え盛る町が「巨大な生き物の体内」に見えていた。 崩れ落ちる柱は、折れた肋骨だ。 吹き上がる火柱は、動脈から噴き出す鮮血だ。 舞い散る火の粉は、細胞の核だ。「……綺麗」 お龍はうわ言のように呟いた。 彼女は職人だ。構造を見る。材質を見る。 火事という破壊の現象の中にさえ、彼女は「解体」という美学を見出していた。世界の外皮が剥がれ落ち、その内側にある純粋なエネルギーが露出しようとしている。 足がもつれ、何度も転んだ。 膝の皮が剥け、着物の裾が焦げた。 それでも彼女は立ち上がり、根津の路地裏を目指した。 なぜ戻るのか。 そこに「あわい屋」があるからだ。 あそこはただの仕事場ではない。彼女の子宮であり、墓場であり、世界との唯一の接点だった。 作りかけの道具は清次に託した。魂の分身は逃がした。 ならば、その抜け殻である「私」は、元の鞘(さや)に戻らなければならない。 ようやく、見慣れた路地に辿り着いた。 奇跡的に、あわい屋のある長屋の一角だけが、まだ炎に包まれていなかった。風
翌日、夕霧が持ってきたのは、寺の墓守に金を握らせて手に入れた「人骨」……ではなく、古い卒塔婆(そとば)の木片だった。さすがに人骨そのものを掘り出す度胸は、夕霧にも、そして墓守にもなかったのだ。「ごめんよ、お龍さん。これくらいしか……」「いいの。ありがとう」 お龍は、風雨に晒されて灰色に変色した卒塔婆を受け取った。そこには戒名が書かれているが、すでに判読不能になっている。 死者の魂が染み付いた木。 お龍はそれを細かく砕き、炭にした。 彼女の計画は少し変更された。他人の骨を使うのではない。やはり、自分のものでなければ意味がない。 だが、生きている自分の骨を取り出すわけにはいかない。 そこで彼女が目をつけたのは、「髪」と「血」と「爪」だった。 古来より、これらは呪術的な意味を持つ身体の一部である。 お龍は自分の長く伸びた髪を切り落とした。それを細かく刻み、漆のペーストに混ぜ込む。 さらに、喀血した際の血を、丁寧に濾紙(ろし)で漉(こ)し、顔料であるベンガラの代わりに混ぜる。 血の鉄分が漆と反応し、独特の黒味を帯びた赤色――「どす赤」に変色する。「綺麗……」 お龍はその色を見て、うっとりと呟いた。 それは生命の色であり、同時に死の色でもあった。 工房は今や、錬金術師の実験室の様相を呈していた。 部屋の四隅には結界のように注連縄(しめなわ)が張られ、中央には奇妙な匂いのする壷が置かれている。 清次が訪ねてきたのは、そんな時だった。「……おい、この異様な雰囲気は何だ」 清次は部屋に入るなり、眉をひそめた。「新しい技法の実験中ですよ」 お龍は短くなった髪を揺らしながら微笑んだ。痩せこけた頬、落ち窪んだ目、しかし瞳だけが爛々と輝いている様は、さながら鬼気迫る巫女のようだった。「髪を切ったのか」
根津の町に、初夏を告げる祭囃子が遠く聞こえる季節になった。だが、「あわい屋」の空気は張り詰めていた。 お龍の病状が悪化していた。 朝、布団から起き上がるだけで息が切れる。痰に混じる血の量が増え、色は鮮血からどす黒い凝血へと変わっていた。 それでも、彼女は鑿を置かなかった。 むしろ、取り憑かれたように制作に没頭していた。 今の依頼品は、吉原でも指折りの太夫(たゆう)からの注文だった。『普通の木では満足できない。私の肌に負けない、艶(つや)のあるものを』 お龍が選んだのは、漆黒の「黒柿(くろがき)」だった。数万本に一本しか出ないと言われる、黒い紋様が入った希少な柿の木だ。その模様は、まるで墨を流したように妖しく、見る者を不安にさせる美しさがあった。「……硬い」 黒柿は石のように硬い。鑿の刃がすぐに零(こぼ)れる。 お龍は何度も砥石で刃を研ぎ直し、脂汗を流しながら削り続けた。 その作業中、夕霧が駆け込んできた。 普段の落ち着き払った様子はない。顔色は蒼白で、髪も乱れていた。「お龍さん! 大変だ!」「どうしたの、藪から棒に」「手入れだよ! 北町奉行所の!」 お龍の手が止まった。「吉原に?」「違う、ここら辺の裏長屋一帯さ! 『好色本や淫具を作っている不埒者』を狩り出すって……今、隣の版木屋がやられた!」 お龍は背筋が凍るのを感じた。 いよいよ来たか。 清次の警告通りだった。水野忠邦の「天保の改革」の余波が、この路地裏まで押し寄せてきたのだ。「逃げなきゃ! 道具を持って!」 夕霧はお龍の手を引こうとした。 だが、お龍は動かなかった。動けなかったのだ。 彼女の視線は、作りかけの黒柿の張形に釘付けになっていた。「まだ……磨きが終わっていない」「何を言ってるんだい! 命とどっちが大事なんだ!」「これが私の命だよ!」 お龍が叫んだ。その拍子に激しく咳き込み、床に鮮血を撒き散らす。 夕霧は悲鳴を上げそうになるのを堪え、お龍を背中から抱きしめた。「馬鹿っ……! あんたって人は……!」 その時、表通りから怒声と、戸板を蹴破る音が聞こえてきた。「御用だ! 神妙にしろ!」 捕り手の足音が近づいてくる。砂利を踏む草鞋(わらじ)の音が、死神の足音のように響く。「……隠そう」 夕霧が言った。彼女の目には覚悟の色があった。「床
雨が上がった翌日の午後は、空気が澄んで、木材の乾燥には最良の日和だった。 お龍は工房の縁側に座り、さまざまな種類の木材を広げていた。 檜(ひのき)、朴(ほお)、椿(つばき)、そして南洋から渡ってきたという黒檀(こくたん)。 それぞれの木には個性がある。檜は香りが高く、殺菌作用があるため、清浄な用途に向いている。朴は柔らかく加工しやすいが、耐久性に欠ける。黒檀は石のように硬く、冷たい。「お龍さん、いるかい?」 路地の方から、鈴を転がすような高い声がした。 吉原の遊女、夕霧(ゆうぎり)である。 彼女は今日、非番の日を利用して、「あわい屋」を訪ねてきたのだ。派手な打掛ではなく、地味な町娘のような着物を着ているが、その歩き方ひとつに染み付いた色気は隠しようがない。「あら、夕霧。珍しいじゃない」「ちょっと近くまで来たからさ。……嘘よ、あんたに会いたくて足が勝手に向いちゃった」 夕霧は悪戯っぽく舌を出して、慣れた様子でお龍の隣に腰掛けた。 彼女からは、高級な白粉(おしろい)と、微かな伽羅(きゃら)の香りがした。それは遊郭という閉ざされた世界の匂いだ。「精が出るねえ。また新しい注文かい?」 夕霧は広げられた木材の一本を手に取った。真っ白な木肌の檜だ。「ええ。神田の商家の旦那さんからよ。奥方が不感症で悩んでいるらしくて、少し刺激の強いものを、とね」「男ってのは勝手だねえ。自分の腕が悪いのは棚に上げて、道具に頼ろうってんだから」 ケラケラと笑う夕霧の横顔を、お龍は眩しそうに見つめた。 夕霧は美しい。透けるような白い肌、切れ長の目、そして何より、生命力に溢れている。彼女の体は、お龍の病んだ肉体とは正反対の、瑞々しい果実のようだ。「ねえ、お龍さん」 夕霧がふと真顔になり、お龍の手を取った。「あんたの手、随分と荒れてるよ。……また、無理してるんじゃないのかい?」 夕霧の指が、お龍の指のささくれを優しく撫でる。その指先は温かく、柔らかかった。「職人の手だからね。仕方ないわ」「嘘だ。あんたの手は、冷たすぎる」 夕霧は、お龍の手を自分の着物の懐――帯の間へと引き入れた。そこは温かかった。乳房の膨らみと、心臓の鼓動が直接伝わってくる。「……夕霧……」「あたしが温めてあげる」 真昼の縁側である。人通りは少ないとはいえ、誰に見られるかも分からな
江戸の空が、重たい鉛色に沈んでいる。根津の裏路地、湿った風が吹き抜ける長屋の一角に、「あわい屋」という小さな看板が揺れていた。 六畳一間の工房には、鼻孔を刺すような甘酸っぱい匂いが充満している。漆の匂いだ。それは森の精気が腐敗する寸前で放つような、濃密で、どこか淫靡な香りを孕んでいる。 お龍(おりゅう)は、薄暗い行灯(あんどん)の光の下で、一本の木塊(きくれ)と対峙していた。 素材は、樹齢五十年の柘植(つげ)。硬く、緻密で、人間の肌にもっとも近い弾力を持つと言われる木だ。お龍の細い指が、鑿(のみ)の柄を強く握りしめる。指の関節は白く浮き上がり、そこには無数の細かい切り傷と、漆による気触(かぶ)れの跡が刻まれていた。職人の手だ。けれど、その手つきは慈母が赤子を撫でるように繊細でもあった。 シュッ、シュッ。 鋭利な刃先が木肌を削る音が、静寂の中に吸い込まれていく。 彼女が彫っているのは、仏像ではない。簪(かんざし)でもない。男根を模した性具――張形(はりがた)である。 しかし、お龍の張形は、巷に溢れる春画のような誇張された代物とは一線を画していた。血管の一筋、亀頭の微かな歪み、睾丸の皺の寄り具合に至るまで、徹底的な写実主義(リアリズム)に基づいている。それは単なる快楽の道具というよりも、失われた肉体の一部を補完する「義肢」に近い厳粛さを纏っていた。「……ふぅ」 お龍は鑿を置き、小さく息を吐いた。 途端に、喉の奥から込み上げてくるものがあった。 ごほっ、ごほっ、ごほっ。 乾いた咳が止まらない。背中を丸め、畳に手をついて激しく咳き込む。肺の奥で、錆びたふいごが軋むような音がする。胸郭が痛み、視界が白く明滅する。 ようやく発作が収まり、お龍は口元を懐紙でぬぐった。 白い紙の上に、鮮やかな紅が散っている。 それは、彼女が仕上げに使う最高級の辰砂(しんしゃ)の赤よりも、ずっと生々しく、不吉な輝きを放っていた。 鉄の味。 口の中に広がる血の味は、奇妙なほど冷たく、そして甘かった。「……また、少し減ったね」 お龍は誰に聞かせるでもなく呟いた。減ったのは、自分の命の時間だ。 彼女は労咳(ろうがい)を病んでいた。 江戸の町医者は「精のつけすぎだ」などと適当なことを言ったが、お龍は自分の体が内側からゆっくりと溶けていく感覚を、確かな解像度で把握